死ぬには日がわるい

うつ病女の生きるわけ

love myselfむずすぎ

いきなり理想の自分になんてなれないのに、何者かになりたいという気持ちが今の自分を全否定してくるから苦しい。

自分に過剰に期待して、理想との差に愕然として、自分が嫌になるという…

仕事をするうえで、なかなか理想に近づけないもどかしさ、頑張っても頑張っても自分の作ったものが嫌いで、マウント合戦な広告業界の人も嫌いで、でもいいものが作りたくて、でもそうはできない仕組みで。

そしてそこまでの創造性と体力がない自分もいて、

なんのための労働…?

なんでこんなにメンタル削られるの…?

なんのために生まれて?なにをして喜ぶ???

という話を夜中まで元同僚としてた。

なんかもっと根源的な人間生活を送った方がいいのか。自給自足とか憧れる。。

ただの現実逃避だけど…

もっと気楽に生きてどんな自分も認めてあげたいよ〜

難しいよ〜

とにかく人生において1番難しいのは自分を好きになるということだよ。

なぜこんなに難しいのか。

他人は簡単にやっているように見えるのに…意外とそうでもないのか(それならそれでやや救われる

自己肯定感とはなにか考える。

自分のことが好き…でもなく、なにがあっても己の非を認めない…でもなく、

たとえ最悪の1日を過ごした後でも、それでも自分の人生には生きていく価値があると思えること。それが自己肯定感かなあ。

そう思える人間になりたい。

メンタル弱々すぎて、なんかあるとすぐ自分の性格クソゲーすぎて消化すんのもめんどくさいはよ終わらせたい、と思ってしまうね。

こんなだから子供も欲しくない。生まれて生きていくことを良いことだと思ってないから。

なんでこんな脳みそになったかなあー

楽しいと思えることに触れなきゃな…

つくるしごと

少しでも早く良いものを…という価値観でずっとやってきて

時間に追われ、精度にこだわりやってきた

 

鬱になり、コロナになり、

ゆっくりと作るということの価値や、あえて車輪の再発見をするということの豊かさに気付かされつつある。

そしてその豊かさの中に、やはり精度が、良いものが宿る気がしている。

 

と同時に、

今ある課題に真摯にとりくむこと

求められていることに耳を傾けること

つまり「今ここで、目の前にいる人間と真摯に向き合っていくしかない」という気持ちでデザインを続けていくことの難しさも感じている。

 

ただただ強い言葉を大きな声で言える人や、

チートができる人、「あれ俺詐欺」ができる人間ばかりがのしあがっていっている気がしてならない。

 

いいものを作りたい人間と、権力を得たい人間の差なのか。

 

私は食い物にされたくない。

 

死ぬには日が悪い

上島さん死去のニュースを見てどうしても引っ張られてしまう。

 

私だって生きていくのが嫌になる。

人生の中に辛い何かがあるのではなく、「"生きることが嫌になる自分を抱えて生きていくこと"を終わらせたい」と感じる。

 

仕事や他人に突き動かされて頑張りすぎて消耗したり、逆にやりたいことと向き合えずダラダラしてしまう自分に失望したり、それでいて他人に嫉妬したり。

けれど、それでも、なにもしない。なにもない人生であること。何者でもないこと。

他人や自分の人生の粗を探して怒りや後悔を反芻してばかりいる。

そういう人生を終わらせたくなる。

 

上島さんのように、ふと首に縄をかけて死んでしまおうか。そんなアイデアが頭に浮かぶ。軽い気持ちでそこへふと足を踏み出しそうになる。

 

それでだ。

今終わらせるとしたら、片付けておくべきことがある。

親や兄弟や恋人が私の死を重荷に感じないようにしておくべきことがある。

私の死後、みんなが困らないように遺品を減らしておこう。サブスクやらなんやら、手続きのいるものは解約しておかなければ。

少しずつ周囲との関係を簡素にして、周りが無駄に気に負わないようにしなければ。

…ああやることがありすぎる。今日死ぬには日がわるい。

そんなふうに思って、思いとどまる。

 

たぶん、とても疲れたある日、もういいや死後なんて、周りの人なんてなんでもいいや…と思ったら、その時が"その時"なんだろうなあ。

ある意味で私は周りとの繋がりによって生かされているなあと思う。